2009年06月25日

日本軍の真珠湾攻撃で始まる

1941年、日本軍の真珠湾攻撃で始まる。1942年前半までは日本が破竹の勢いで進撃し、広大な占領地を得た。しかし、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦で敗退し、勢いが止まる。1943年には、ソロモン諸島やニューギニアで消耗戦を強いられた。一方、米軍は同年11月から中部太平洋で本格的反攻を開始。1944年には、マリアナ諸島のサイパン島を占領。日本本土の大半は米軍の新型戦略爆撃機B-29の行動範囲内に入る。日本海軍連合艦隊は壊滅し、神風特攻隊による攻撃が始まる。1945年になると、B-29の本土空襲が激化し、軍需産業と国民の戦意に打撃を与えた。さらに硫黄島、沖縄が陥落。広島・長崎への原子爆弾投下、ソ連参戦を受け、天皇の意思により日本はポツダム宣言を受諾。8月15日終戦となったが、ソ連軍の攻撃は終戦後も続き、日本は北方領土を占領された。9月2日、米戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に調印し、日本は正式に降伏した。1941年12月8日(日本時間)から1945年9月2日までの戦争を、大東亜戦争(当時の日本政府による呼称)若しくは、太平洋戦争(当時の連合国による呼称)と呼ぶ。また、地理的正確さを重視して、アジア太平洋戦争と呼ぶ論者もいる。

1939年8月の独ソ不可侵条約締結は日本に衝撃を与え、当時の平沼騏一郎内閣は総辞職。その後もヨーロッパの戦争に不介入の方針をとっていたが、1940年6月、フランス降伏、枢軸国の勢力が拡大するに及んで近衛文麿内閣は同年9月27日、日独伊三国同盟を締結した。親独ヴィシー政権成立後、中国への援助ルート遮断を目的に日本軍は北部仏印進駐を開始した。アメリカとの戦争回避のため、日米交渉が1941年4月から開始されたが、軍部の強硬姿勢やフランクリン・ルーズベルト大統領の対日強硬策などにより交渉は難航した。
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1941年6月の独ソ戦開始後、陸軍の一部には対ソ参戦を目指す北進論もあったが、ノモンハン事件での敗北後は北進に消極的な意見が強く、また資源確保には南進が重要であり、蘭印(オランダ領インド、現インドネシア)からの軍事物資大量買付け交渉が失敗すると、同年7月28日の南部仏印進駐を開始した。アメリカは対抗措置として在米日本資産を凍結。さらに石油禁輸に踏み切った。これによってアメリカ・イギリス・中華民国・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼んだ。

外務省は同年晩秋まで日米交渉を続けたが、同年10月18日、強硬派の陸軍大将東条英機内閣が成立。中国からの撤退で妥協する事は不可能となった。 11月26日、アメリカのコーデル・ハル国務長官から来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎駐米大使に通称ハル・ノートが手渡された。中国大陸から全面撤退すべし、との強硬な撤退要求を受け、日本政府はこれを、全占領地からの撤退要求と解釈。事実上の最後通牒と認識し、日米交渉は完全に決裂した。同日、日本海軍機動部隊は南千島の択捉島単冠湾(ヒトカップ湾)からハワイに向け出港した。

2009年06月10日

アメリカ合衆国政府ないしはルーズベルト大統領が

アメリカ合衆国政府ないしはルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を事前に察知していたと論ずる者の中には、さらに一歩論を進めて、アメリカが、わざと日本の攻撃を誘い出したという説を唱える論者もいる。また軍事的政治的な理由として、日本が先制攻撃を行う事以外に、アメリカが対日戦争を引き起こす手立てがない。

否定説
アメリカが日本を誘い出したという説を唱える者の中には、時代遅れになった戦艦を生け贄としてあえて真珠湾に停泊させ、空母を出港させて温存したのがその証拠だと主張するものもある。しかし戦艦が時代遅れになり、空母が主役になったのは、この真珠湾攻撃がきっかけになったのであり、原因と結果を取り違えた主張であると言わざるを得ない。真珠湾奇襲は大艦巨砲主義時代を終焉させ、航空主兵時代へ移行するという、軍的な一大転換をもたらした大事件であり、陰謀論が正しかったとすれば、アメリカはこの軍事的な一大転換すら事前察知していた事になる。また、出港した空母が南雲機動艦隊と遭遇しなかった事は偶然の結果であり、常識的に考えれば出港した艦のほうが湾内に停泊した艦よりも状態としては危険だったはずである。なお、これはロバート・スティネットの主張したマッカラム覚書とは矛盾する。(後述F 項)
ロバート・スティネットの著書『真珠湾の真実』で参照される資料数は膨大で全容は掴みづらく、秦郁彦ら歴史研究者が日本側の資料と照合した結果では、事実関係の誤りや日付の誤認、牽強付会の解釈が多数あると指摘されている(『検証・真珠湾の謎と真実』 秦郁彦他著)。
肯定説
軍事的政治的な理由として、日本が先制攻撃を行う事以外に、アメリカが対日戦争を引き起こす手立てがない。当初、本営の対米作戦にはマレー沖で米艦隊を迎え撃つ作戦が用意されていたが、国内である海軍将官により熱烈な真珠湾攻撃への押しが数年続き、アメリカに絶対に勝てないという意図の下、戦火が開かれた。また日本は、対アメリカへの国力差を当然常識的に認識しており戦争反対論と対話外交が主流派だった。
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誘い出したという説の根拠として、チャールズ・ビアードらは陸軍長官スティムソンの日記を挙げている。日記では11月25日のホワイトハウスでのルーズベルトの発言として、「攻撃を受けるかもしれない」、「いかにして彼らに最初の一発を撃たせるかが問題なのである。これはむずかしい話だ。」とある。『大日本帝国の興亡』の著者ジョン・トーランドはこれに対して、日記やスティムソンの後の発言からはこの説が正しいように見える。しかし、11月下旬に行われた大統領と顧問による討議録から、攻撃の可能性を信じていたのはアメリカ領以外のシンガポール・タイ・他の東南アジア地域であることがわかるとしている。また、ルーズベルトが「むずかしい話」と言ったのは、アメリカ以外への攻撃をアメリカへの攻撃だと強弁するのがむずかしいからであるとしている。日本に警告を送るなどの方法で、これが可能になることをトーランドは指摘している。後に、トーランドは新事実を基にして事前察知説に転向し、『真珠湾攻撃』(文藝春秋刊)を著している。主張の一つとして、南雲艦隊の無線封止は真珠湾攻撃を英雄視する日本人による美化であるというものがある[23]。
ロバート・スティネットの著書は『真珠湾の真実』として日本語訳が出版されている。『真珠湾の真実』で語られたマッカラム覚書(英語)を参照されたい。マッカラム覚書は日本帝国の強みと弱み、アメリカ合衆国の第二次世界大戦における立場[24]と今後の展望を述べたもので、最後にA-H項からなる日本を追いつめるであろう項目が進言されている。[25]同書論調の最たる根拠としてはこれが真珠湾攻撃以前に用意された文書であること、この書簡が大統領側近に回されたこと、公開された資料からは大統領自身の指紋を著者が確認したことなど。またその項目は後に実行された現実の合衆国政策と符合ないし類似したことなど。また、同項はABCD包囲網とほぼ同義である。
マッカラム覚書F項は、当時、米艦隊の主力兵力は本土に配備されていたことを見ると、ハワイを増強して日本を挑発しようとする意図によるものであり、1940年の年次演習により米艦隊の主力兵力がはじめてハワイに集結したが、当初、演習終了後、艦隊主力をアメリカ西海岸に帰投させる計画であったものをサムナー・ウェルズ国務長官が計画修正して駐留させるよう圧力をかけたとロバート・スティネットは言う。

2009年06月06日

平清水焼(ひらしみずやき)は

平清水焼(ひらしみずやき)は山形県山形市平清水で焼かれる陶磁器。江戸後期の文化年間に地主の丹羽治左衛門が茨城からの陶工、小野藤次平を招いて、地元千歳山の土を使って焼かせたのが始まり。伝承の上では慈覚大師が千歳山の土を使って、焼き物を教えたとされている。
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現在、6つの窯元があるが一般に知られているのは青龍窯の「梨青瓷」「残雪」である。梨青瓷は、地元の土に含有されている硫化鉄が、還元炎焼成によって気化、釉薬の中に溶解すると梨の肌のような青白色の斑点が生じ、独特の風合いを醸し出す。ブリュッセル万国博覧会の出展で受賞し、一気に平清水の名は上がったといわれる。「残雪」は純白の白釉を掛けることによって、黒色の斑点が浮き上がることで名付けられた。他にも撫青瓷の平吉窯、「白衣」といわれる化粧掛けや「白砂」を得意とする天沢窯など6つの個性的な窯場がある。

2009年04月23日

朝廷

中国の朝廷は皇帝を中心とし、丞相などの宦官を含めた中国古来の政府である。

中国の皇帝は日本の天皇と同じく、建国者(高宗)の男子子孫がこれを継いだ。また中国では国内で戦争が起こりその勝者が皇帝に対し禅譲を要求して皇帝となり国号を変え前皇帝の男子の子孫でない別の者が皇帝となっている。その後同じように男子に世襲される。

ちなみに中国国内で皇帝の位を帝位と呼び、通常はこれをとることは不義不忠とされているが、現在の皇帝に不満がある場合国民などが帝位に着くことを望んだ場合帝位に上る。しかし例外もありその場合違うものがこの皇帝を倒し善政を敷いた。

ちなみに今は清王朝後、朝廷は存在せず、中国共産党が中国を統治している。清王朝最後の皇帝溥儀は満州国の皇帝となっている。この場合朝廷的体質ではなく明治後の日本の政府のような体質であり朝廷とは呼びづらい。

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日本の朝廷
天皇が政治をおこなっていた場所。もしくは政府のことを指す。

古代(奈良時代、平安時代)から中世前期(鎌倉時代)における日本では、天皇を中心とした政治体制が維持されており、国家における天皇が政治を行っていた政府(御所)のことを意味することが多い(ただし、皇位から離れた天皇(太上天皇)が実質の政務を行う院政も「天皇家の当主」を中心としていることでは差異はほとんどない)。「朝廷」の言葉の由来は、大宝律令が成立し朝廷の政治体制が確立された奈良時代は、政治や会議等は早朝から始められ午前中に開かれていたことによる。

武家政治の時代においては、征夷大将軍が主宰する政府(幕府)についても「朝廷」と言うことがある。今日においては「朝廷」という言葉が幕府に対応する言葉としてよく使われるが、これは天皇・貴族(公家政権)と武家(武家政権)を対立した存在として捉えるようになった近世以後の考えからの影響が強い。実際には鎌倉幕府の摂家将軍や親王将軍、江戸幕府の大政委任論のように、幕府もまた朝廷の実質とは一線を画しつつも、朝廷から分離してその存在を考えることはできないものであった。

また室町時代初期には、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)と持明院統の北朝とに分かれ対立していた。この時代を南北朝時代という。

明治維新によって、幕府も含めて旧来の朝廷機構は事実上廃止されて(王政復古の大号令)、新しく生まれ変わった行政組織である明治政府が成立した。この時点で前近代的な政治体制である朝廷は終焉を迎えて日本国(あるいは大日本帝国)政府に取って代わったと言える。

2009年04月19日

第一次世界大戦とロシア革命

1908年オスマン帝国に青年トルコ党の革命がおこると、ブルガリアはこれを機に独立を宣言し、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合した。ここはかねてよりセルビアの望んでいた土地だった。ロシアは1912年ブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ギリシアをバルカン同盟に組織し、第2次モロッコ事件(上述)と伊土戦争に苦しむオスマン帝国に対し宣戦布告させた(第一次バルカン戦争)。オスマン帝国は敗北したが、その戦後処理において、ブルガリアとセルビア・ギリシアの間に対立が生じ、第二次バルカン戦争が起こってブルガリアは、オスマンとともに三国同盟側に接近した。こうして、スラヴ、ゲルマン、ギリシア、ラテン、トルコなど諸民族がぶつかりあうバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」となった。

1914年、サラエヴォ事件によって、オーストリア皇太子が暗殺された。このような事態を予期していたドイツはただちに小モルトケによってシュリーフェン・プランが実行にうつされ、ベルギーの中立を犯してフランスに侵入したが、マルヌ会戦に破れて戦争は長期化した。ブルガリアとトルコはドイツ側に立ったが、「未回収のイタリア」問題でオーストリアと対立していたイタリアは1915年連合国側に立って参戦した。日本は日英同盟を根拠に在中国ドイツ基地を攻撃し、ドイツ権益を継承、次いで中国に二十一か条の要求を行った。

開戦3年目には航空機、戦車、毒ガスなどの近代兵器が登場し、ヴェルダンの要塞をめぐって死者25万人を出す激しい攻防戦(ヴェルダンの戦い)が展開された。当初、すぐに終わるであろうと思われていた戦争は長期化し、国家総力戦となって各国民を苦しめた。

1917年にはロシア革命が起こり、ニコライ2世は退位した。二重権力の状態を経て11月には社会主義革命が起こり、ニコライは処刑され、ソヴィエトは翌年ドイツと単独講和を結んだ(ブレスト=リトフスク条約)。窮地においこまれたドイツも、イギリスの制海権を打破するため、1917年の初めに無制限潜水艦作戦を宣言したが、これはアメリカ合衆国を決定的に連合国側に立たせることとなり、17年4月にはアメリカが参戦、200万人以上の兵士をヨーロッパに投じ、ついで中南米諸国や中国もドイツに対し参戦した。

1918年にはいると、ドイツでは物資の不足が深刻化し、国民の不満は高まってきた。同年秋以降、同盟国がつぎつぎに降伏し、ドイツは敗色濃厚となった。こうしたなか、11月にはキール軍港の水兵の反乱を機にドイツ革命がおこり、ドイツ共和国(ヴァイマル共和政)が成立した。ドイツ社会民主党を主体とする内閣は同月、連合国と休戦条約をむすび、ここに莫大な犠牲をだした大戦は終結した。

パックス・ブリタニカの終焉
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在野の歴史家ジャン・モリス(en)は、「パックス・ブリタニカは1914年8月に終わりを告げた」と述べている。それに対し、中西輝政は、「パックス・ブリタニカ」が「イギリスによる『平和』」であるなら正しくそうだったが、しかし、それはすでに「イギリス『による』平和」ではなかったと指摘している[1]。すでにヨーロッパの安定は、列強間の微妙な勢力均衡に依存していたからである。

第一次大戦におけるイギリスの戦死者数は、公式集計の完了前にナチス・ドイツによるロンドン空襲があり、資料が焼失してしまったことにより確実な統計はないものの約90万人とされ、これは第二次大戦での39万7,000人の倍以上である。イギリス人にとって第一次大戦は、まず大量戦死という悲しみの記憶であり、この戦争のあと、イギリス帝国はもはや以前の姿に戻ることはなくなった。中西輝政は、「ドイツを包囲するよりほかにない」という強迫観念が、イギリスをして壮大な軍事的対峙の網のなかに自ら囚われる結果を招いたことが「悲しみの大戦」を運命づけたと評している
中西はまた、第一次世界大戦がイギリスの衰退に及ぼした影響として、次の3点を指摘している[1]。

大戦が心神喪失と呼べるほどの幻滅とショックをイギリス国民に与え、特に若い世代の「帝国支配の意思」を大きく減退させたこと。
第一次大戦後によって生まれた新しい世界秩序が、とりわけイギリスにとって適応困難だったこと。具体的には、ロシア革命の影響による労使紛争時代の到来、大戦後の世界に広がる民族自決主義、国際連盟による集団安全保障体制、世界金融への支配力がアメリカに移ったことなど。
本来ならば国力の再生に専念すべき時期に、戦勝による「見せかけの力の膨張」が「帝国の関心」を散り乱し、中東地域の支配に固執してしまったこと。しかし、そこは新しいエネルギー源「石油」を産出し、「インドへの道」にもあたっていた。

2009年04月04日

幕下和田ノ森?淀川戦は仕切り直し

明治時代 [編集]
1877年頃、幕下和田ノ森?淀川戦は仕切り直し四十数回。しびれを切らした勝負検査役が勝負預りにしようとしたが、ある検査役の「仕切る姿が和田ノ森の方が良かった」という提案で和田ノ森の勝ちと決まった。
1895年6月場所6日目、横綱初代西ノ海?前頭筆頭鳳凰戦。8代式守伊之助は西ノ海に踏み切りありと鳳凰に軍配を挙げたが物言い。西ノ海の師匠・初代高砂取締が役員室から出てきて、踏み切ったかかとの跡のある砂を掘り「この通り、砂を払えば下は俵だ。踏み切りはない」とゴリ押し。正取締(現在の理事長職)の剣幕に押されて検査役の意見はまとまらず、深夜遅くになって協会預かりと決まった。結局、3人の検査役が辞任、伊之助が3日間謹慎ということで表面をとりつくろったが、西方力士がこれで収まるはずはなく、翌1896年1月の高砂追放事件(「中村楼事件」)に繋がった。
1897年1月場所8日目、横綱小錦?大関鳳凰戦。左四つから同体、15代木村庄之助は軍配を鳳凰に挙げたが物言い。観衆は布団や火鉢を投げ、土俵近くに群がり、小錦のファンであった歌舞伎役者の中村勘五郎は土俵の真ん中に大の字に寝て「預かりにしなければ、死んでも土俵を降りない」と叫んだ。結局は預かりと決まったが、そのときはすでに鳳凰が帰宅した後だったので、人を迎えに走らせたりするうち、日もとっぷりと暮れて回向院の場内に提灯をたてて気発灯に点火、両力士が土俵に上がって勝負預かりとなったのは、相撲が終わって実に8時間後だった。
1905年1月場所5日目、前頭筆頭太刀山?小結駒ヶ嶽戦で、駒ヶ嶽の寄りを太刀山はこらえきれず土俵下へ転落した。このとき太刀山の投げ出した足が、土俵下で控えていた行司木村瀬平を直撃した。瀬平は後ろにひっくり返り苦しんだが、際どい勝負のため検査役から物言いがついた。1時間に及ぶ協議の末「勝負預かり」となった。この間に元気を取り戻した瀬平は、次の一番を無事に裁いたが、6日目、7日目と大事を取って休場、8日目より再出場した。ところが9日目の朝、自宅の布団の中で急死。太刀山に押し潰されたことが原因による心臓麻痺だった。
1906年1月場所4日目、小結初代朝汐?前頭3枚目若左倉戦。両者立ち上がるや、若左倉が猛然と張り手の雨あられ、それも真っ向から張りまくる。朝汐も憤然とし応戦し、土俵上は殺気立った。そのとき行司木村小市は「勝負あった」と両者の間に割って入り、軍配を朝汐に挙げた。小市は「張り手は、協会において厳禁とするところなり」と宣言し、朝汐に勝ち名乗りを上げた。従って若左倉の反則負けとなったが、物言いがつき、検査役より「越権行為だ」とか「なぜ勝ち名乗りを上げたのか」と小市を追求する中、「行司の態度は当然」との意見もあった。協会から「正面からの張り手」「拳固にて打つこと」の厳禁の触れが出たばかりで、その矢先だった。まだ規則に不徹底だったため、裁きが決まらぬまま「協会預かり」にした。のちに協会は「行司の行為は独断であり、勝ち名乗りは検査役を無視した越権行為」と行司の責任だったとした。小市は進退伺いを提出したが慰留され、判定は引き分けで決着した。

大正時代 [編集]
1914年5月場所5日目、関脇2代朝潮?前頭11枚目金ノ花戦。金ノ花の突っ張りに後退した朝潮が上から叩きながら土俵を割った。行司の軍配は朝潮に挙がったが、西方控えの横綱太刀山から「朝潮に踏み切りあり」と物言い。東方控えの前頭8枚目綾川は朝潮の勝ちを主張、検査役も意見が割れて決着がつかず、2時間後検査役たちは「協会の二階で協議する」と土俵を去り空白にして意見を闘わす間、土俵周辺は怒声罵声の渦、ついには土俵上に上がって演説する男が現れたりして大混乱。この場所休場していた常陸山、2代梅ヶ谷の両横綱も駆けつけ、3時間40分後「とりあえず勝負は常陸山と梅ヶ谷が預かり、のちに発表する」と決めて、その後の取組を進め、物言いから5時間20分後の午後9時40分、朝潮の丸星、金ノ花の半星、勝負預かりでなんとかケリをつけた。
1921年5月場所5日目、横綱大錦?前頭5枚目鞍ヶ嶽戦。大錦が寄ると鞍ヶ嶽が左へうっちゃり、17代木村庄之助は鞍ヶ嶽に軍配を挙げたが物言いがつき、検査役、控え力士とも鞍ヶ嶽の踏み切りを認めたので、行司差し違えとなった。庄之助は打ち出し直後「本日の失態は本来なら切腹すべきところ」と、辞表を友綱取締(元前頭海山)に提出。協会役員、大錦、鞍ヶ嶽らの慰留に応ずることなく、53年間務めた相撲界を去った。

昭和時代 [編集]
1929年1月場所5日目、関脇玉錦?前頭筆頭真鶴戦。真鶴がもろ差しで、玉錦が閂(かんぬき)にきめる。膠着状態が続き2度水入り、3番後取り直しの相撲が制限時間10分を経過した。再戦は両者の呼吸が合わず、検査役が真鶴に注意した。真鶴はこれを不服とし支度部屋へ引き揚げてしまった。周囲の説得もあり、呼び戻された真鶴は玉錦と取り直し、玉錦が勝利した。
1938年1月場所9日目、横綱双葉山?関脇両国戦。48連勝中の双葉山が寄り切った相撲に、控え力士の玉錦、男女ノ川から双葉に勇み足ありと物言いがつき揉めに揉めた。双葉山の69連勝が48で止まっていたかもしれない歴史的物言いと語り継がれる。結果は、取り直しの末双葉が吊り出しで49連勝。現存する写真では双葉山の右足は大きく踏み越しているが、その前に両国の体は完全に死に体だった。
1941年5月場所14日目、横綱双葉山?大関前田山戦は双葉山の「勇み足」か「送り足」かで紛糾、観客の怒号が飛び交う中協議が続き、意見がまとまらず32分間の中断だったが、双葉山の「取り直しましょう」の一言で協議の末取り直しとなり、双葉山が勝利した。
1948年10月場所6日目、横綱前田山?小結力道山戦。前田山は行司の軍配を受けながら取り直しの判定が不服で、指の負傷を理由に支度部屋へ引き揚げたため、「取り直し」でも「痛み分け」でもなく棄権とみなされ、力道山の不戦勝となった。
1951年9月場所12日目、横綱東富士?大関吉葉山戦は2度の物言いがついた。最初の取組は東富士に軍配が挙がったが、協議の結果は同体で取り直し。取り直しの一番は左四つがっぷりで膠着状態が続き水入り。再開後、吉葉山の一気の寄りに東富士が土俵際で捨て身のうっちゃりを見せた。吉葉山に軍配が挙がるも物言いがつき、協議の結果またも同体。実はこの日、東富士は風邪をこじらせ40度の高熱だったが、無理を押して出場。3度目の取り直しになろうかというところ、検査役がこれ以上の取組は危険と判断し、勝負預かりとなった。
1953年1月場所6日目、物言いの協議結果を初めて場内放送で説明した。
1954年9月場所7日目、関脇大内山?前頭筆頭出羽錦戦。大内山は出羽錦の食い下がりを警戒して、長い腕でのど輪を押し上げて攻める。のけぞりながら出羽錦は何とかもろ差しの体勢になり、右ふところに食いついた。これを嫌って大内山は詰まりながら右から小手を抱え、大きく小手投げを打つと、出羽錦の左ひざが折れて砂に触れたか触れないか微妙なところで、行司13代木村庄太郎は「勝負あり」と軍配を大内山に挙げた。軍配を見た大内山は当然のように力を抜く。軍配を見ていない出羽錦はそのまま大内山を寄り切った。勝ったと思った出羽錦はそのまま西方の二字口に立った。そのとき行司溜まりの西岩検査役(元前頭鯱ノ里)が物言いをつけ「出羽錦につきひざはない」と主張。立浪(元横綱羽黒山)、湊川(元前頭十勝岩)、出来山(元大関汐ノ海)の3者とも同意見、正面の検査長時津風(元横綱双葉山)は泰然と座ったまま。協議の結果「取り直し」が妥当と判断したが、時津風の裁定は大内山が小手投げを打つ体勢から再開する「組み直し」という奇妙な結論に達した。再開後、大内山がうっちゃりで勝ったが、何とも後味の悪い一番となった。結局詰め腹を切らされたのは行司庄太郎で翌8日目より謹慎となった。同様の前例として1941年5月場所13日目、大関前田山?関脇照國戦がある。
1958年1月場所6日目より、勝負検査役は物言いの協議にワイヤレスマイクを使用することにした。
1958年9月場所初日、前頭7枚目北の洋?横綱栃錦の物言いで行司の19代式守伊之助が土俵を叩いて自分の軍配の正当性を主張した。いわゆる「ヒゲの伊之助涙の抗議」である。You Tube動画
1958年11月場所より、先場所の北の洋?栃錦戦の一件で、物言いに行司も検査役の協議に加わり発言できるようになった。
1964年5月場所4日目、序ノ口高見山(現東関)?吉瀬川戦。吉瀬川は足の大きさ18文の巨漢だが気が弱く、怖くなって立ち上がるといきなり後ろを向いて逃げ出し土俵外へ、勝負検査役は「待った」と見なしてやり直し。再び逃げ腰の吉瀬川を高見山はやさしくソーッと押し出した。
1964年9月場所3日目、横綱大鵬?前頭3枚目若浪戦の勝負判定などで時津風理事長が全勝負検査役を叱責。これを機に勝負検査役は幹事制を設けることとなった。
1964年11月場所12日目、前頭11枚目荒波?同5枚目海乃山戦で、荒波が海乃山のマゲをつかむ反則を犯したが、行司軍配は荒波に挙がり反則ながら勝ちとなった。この一番で湊川(元前頭十勝岩)検査長の処置が不適切と、取締会がこの場所に限り湊川を譴責処分とした。
1965年1月場所より物言いは携帯マイクをやめて、正面の検査役が経過説明をすることになった。
1966年11月場所4日目、小結琴櫻?前頭2枚目禊鳳戦。禊鳳が一気に寄ると、琴櫻が東土俵際で捨て身の小手投げ。2人はほぼ同体で倒れたが、行司4代木村玉治郎(のち27代庄之助)は琴櫻の負けと判断、禊鳳に軍配を挙げた。しかし物言いがつき協議の結果、行司差し違えで琴櫻の勝ち。25代庄之助も「禊鳳が先に落ちている」と玉治郎の差し違えを認めた。しかし検査役の物言いに公平さを欠くような場面があった。東土俵で勝負がついたにもかかわらず、最初に物言いをつけたのは、西の佐渡ヶ嶽検査役(元小結琴錦=琴櫻の師匠)。さらに、藤島検査役(元前頭出羽湊)は、いちばん勝負の見える場所に居ながら、部屋の弟子である禊鳳の勝ちを主張した。
1967年11月場所9日目、前頭筆頭長谷川(現秀ノ山)?横綱佐田の山戦。佐田の山の廻しがほどけたため、立行司の22代式守伊之助が、両者の背中を叩いて「廻し待った」で両者の動きを止めようとしたが、佐田の山が気づかずに長谷川を吊り出してしまった。物言いがつき協議の結果、「廻し待った」をかけた時の体勢から取り直し、佐田の山が勝利した。しかし再開前と再開後の長谷川の差し手が変わっていた。「廻し待った」がかかった時点での長谷川の差し手は「左差し」だったが、再開時には「もろ差し」になられた体勢になっていたという。長谷川は組み手の違いを主張せずに敗れた。取組後、伊之助は「差し手が見えなかったので二子山(元横綱初代若乃花)、岩友(元前頭神東山)両検査役に聞いたところ、(佐田の山の)もろ差しと言ったので」と弁明した。差し手を確認せず「廻し待った」をかけた伊之助にも非はあるが、長谷川自身にも問題があった一番だった。
1968年9月場所初日、十両最初の和晃?朝嵐戦。制限時間いっぱいから朝嵐が土俵内に落ちていた箒の切れ端を捨てるために土俵外に足を踏み出して負けにされた一番。陣幕審判長代行(元前頭島錦)の説明は「制限時間後土俵外に出たのは勝負規定違反なので、和晃の勝ちとします」だったが、そんな規定はどこにもなかった。
1970年7月場所12日目、前頭5枚目黒姫山(現武隈)?同8枚目大雄戦で、行司が即退場処分を受けるという前代未聞の珍事が起きた。制限時間いっぱいから黒姫山が立つと、大雄は一瞬「待った」という仕草を見せたが、そのまま力を入れ直し右を差した。ところが「待った」と思った黒姫山が力を抜いてしまい、そのまま大雄が寄り切った。この間、行司木村今朝三は完全に棒立ち、「待った」も「ハッケヨイ」の声も発しなかった。5人の審判員は協議の末、今朝三を即刻退場処分とした。審判規定行司の項第7条「両力士が立ってからは、“待った”または“ハッケヨイ”の声をなす」の職務を怠ったためだった。この一番は取り直しとなり、代わりに木村玉治郎(のち27代庄之助)が裁き、大雄が勝利した。今朝三は処分後「声を出したが、小さかった」と弁明したが、さすがに意気消沈したという。
1972年3月場所7日目、横綱北の富士と西前頭筆頭貴ノ花の結びの一番で22代式守伊之助の軍配は北の富士に挙がったが、北の富士に勇み足ありとして行司差し違えで貴ノ花勝利。この両者は前場所も北の富士の“つき手”か“かばい手”かを巡ってもめた一番を取っており、二場所連続同じ顔合わせで立行司が差し違えの珍事となった。なお伊之助はこの場所12日目の関脇長谷川(現秀ノ山)?大関大麒麟戦においても差し違えており、伊之助は進退伺いを提出したが、場所前に25代木村庄之助が廃業しており、立行司不在の場所は前例がないため、翌13日目の1日のみ謹慎となった。
1974年11月場所7日目、前相撲の椰子ノ島?壇上戦。行司の軍配は壇上に挙がったが、物言いがついてトンガ王国出身の椰子ノ島の勝ちと決まり、陣幕審判(元前頭島錦)が「ただいまの勝負は行司差し違いでトンガ王国の勝ちと決まりました」と説明して館内爆笑となった。陣幕審判は時々面白い説明をする人で「残念ながら踏み越しがあり東方の勝ち」と説明したこともあった。
1975年7月場所初日、横綱北の湖?小結高見山(現東関)戦。立行司26代木村庄之助は北の湖に「はき手あり」とみて高見山に軍配を挙げたものの物言いがついた。しかし土俵上にははき手の跡がなく取り直しとなり、北の湖が寄り切って勝ったが、後味の悪い一番となった。
1975年7月場所12日目、序二段増の里?富士嵐戦。立合い富士嵐の変化に前へのめった増の里が手をつきかかったところで行司木村玉男は軍配を富士嵐に挙げたが、増の里はなんと前方空中回転して立ち、再び戦闘態勢をとった。当然物言い取り直しとなり、外掛けで増の里が勝った。
1976年7月場所、7日目の関脇荒勢?前頭2枚目金城戦と8日目の荒勢?前頭筆頭若三杉(のち2代若乃花、現間垣)戦で時間いっぱいから、ともに6回の「待った」があり、勝負審判全員が土俵に上がって協議、両力士に注意するという場面があった。
番外だが1980年11月場所13日目、佐ノ山審判(元小結國登)が酒に酔って審判を務め解任された。
1988年5月場所初日、前頭11枚目霧島(現陸奥)?同13枚目水戸泉(現錦戸)戦で3度同体の混戦の末、4度目に水戸泉が霧島を寄り倒し決着した。

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2009年03月20日

東京駅?博多駅間に「あさかぜ」の補助列車

1957年(昭和32年)7月 東京駅?博多駅間に「あさかぜ」の補助列車として下りは30分先行、上りは30分後発する時刻に、臨時特急「さちかぜ」を設定。
1957年(昭和32年)10月 「さちかぜ」を定期列車に格上げし、運行区間を東京駅?長崎駅間に変更。
「玄海」は京都駅?鹿児島駅間運転となり「桜島」に改称。準急307・308列車は京都駅発着となる。
1958年(昭和33年)4月 山陽本線姫路駅まで電化完成。優等列車は姫路駅まで電気機関車牽引となる。 
1958年10月 ダイヤ改正に伴い、以下のように変更。
特急列車
「あさかぜ」に寝台特急専用車両である20系客車を用いはじめる。
それによって余剰となった客車を用いて東京駅?鹿児島駅間に「はやぶさ」を設定。
「さちかぜ」は「あさかぜ」と名前が紛らわしく、誤乗が絶えなかったこともあって「平和」と改称。
急行列車
「さつま」は、門司港駅始発と大幅に区間短縮。その本州部分時間帯での代替列車として、広島駅?門司駅間に準急407・408列車が設定される。
「桜島」は博多駅までに区間短縮されて「玄海」と再改称。
準急305・306列車は急行列車に格上げされ、「宮島」と命名。
1959年(昭和34年)7月 以下のように変更。
「平和」に20系客車を導入し、「さくら」と改称。
京都駅?大分駅間に、「天草」に門司駅まで併結される形で急行「くにさき」を新設。
1959年9月 以下の準急列車に列車愛称を与える。
307・308列車…「ななうら」、405・406列車…「ふたば」、407・408列車…「長門」
1960年(昭和35年)5月 博多駅?長崎駅間に気動車準急「ながさき」新設に伴い、「ふたば」は博多駅打ち切り。
1960年6月 以下のように変更。
東京駅?西鹿児島駅間に不定期急行「桜島」を設定。
「くにさき」は、都城駅まで運行区間を延伸し、「日向」と改称。
岡山駅?博多駅間にキハ55系による気動車急行「山陽」新設。「ふたば」は「山陽」に道を譲って廃止。
気動車準急として、 岡山駅?広島駅間(呉線経由)に「吉備」、 岡山駅?岩国駅間に「にしき」新設。 
1960年7月 以下のように変更。
等級制度の改変によりそれまでの一等車が廃された上で、二等車が新しく一等車に、三等車が二等車になった。
「はやぶさ」の運行区間を東京駅?西鹿児島駅間に変更し、同時に20系客車を導入。
1960年10月 山陽本線倉敷駅まで電化完成。優等列車は岡山駅まで電気機関車牽引になる。 
1961年(昭和36年)6月 山陽本線小郡駅?下関駅間、鹿児島本線門司港駅?久留米駅間電化完成。気動車、客車列車の優等列車に影響なし。
1961年10月 「サン・ロク・トオ」と年月を取って呼ばれる様になるほどの、1950年(昭和25年)10月以来というべき大規模なダイヤ改正が行われ、全国各地で特急・急行・準急列車が大増発となる。日本の動脈というべき東海道本線と山陽本線においては、それが特に力を入れて実施されることとなった。このとき、山陽本線三原駅まで電化完成。
特急列車
「かもめ」がキハ82系を用いて気動車化され、京都駅?宮崎駅・長崎駅間(門司駅まで併結)運転となる。
同じ気動車を用いて大阪駅?広島駅間に「へいわ」、大阪駅?博多駅間に「みどり」(運行開始は12月)新設。
毎日運転の不定期列車として東京駅?熊本駅間に「みずほ」新設。
急行列車
気動車急行として広島駅?別府駅間に「べっぷ」、客車急行として東京駅?大分駅間に「ぶんご」(門司駅まで「筑紫」と併結)、大阪駅?佐世保駅間に「平戸」、寝台専用列車として、大阪駅?熊本駅間に「ひのくに」、大阪駅?広島駅間に「音戸」新設。
「雲仙」と「西海」は併結運行となる。
不定期では、大阪駅?博多駅間に「はやとも」、大阪駅?南延岡駅間に「第2日向」、大阪駅?長崎駅間に「第2玄海」が新設。
「阿蘇」・「さつま」は名古屋駅発着に、「玄海」は長崎駅発着に変更。「宮島」は気動車化。
急行形のキハ58系気動車が「宮島」「べっぷ」「山陽」などで運行を開始。
準急列車
東海型電車とよばれた153系電車によって大阪駅?三原駅間に「びんご」、キハ55系気動車によって広島駅?小郡駅(現、新山口駅)間に「周防」が新設され、「長門」も気動車化の上で小倉駅行きとなった。
この結果、山陽本線の優等列車は下記のようになった。
テリーヌ レーション パドック コラール ランド ブリス しし唐 レッド ダラス バスタ クロノグ ティング ドライ フルカップ ゴッド ハイド カナン シダレ りつりん ひぼう チカフ ナーバス なかふら ヨゴリーノ 高菜 ドアボーイ フレナ ユズリハ 潮の香り ブラック やしゃ オリンピピ ヤラピン イスア スラム ミラージュ ビート ワイポ クローニ オゾンホ プラン シトラス やなだに テラピア セレクト バック カイドウ バルブトゥ シティ あきう

昼行特急列車 定期3往復
「かもめ」 京都駅?長崎駅・宮崎駅 82系気動車
「みどり」 大阪駅?博多駅 82系気動車
「へいわ」 大阪駅?広島駅 82系気動車
夜行特急列車 定期3往復・不定期1往復
「あさかぜ」 東京駅?博多駅 寝台列車 20系客車
「はやぶさ」 東京駅?西鹿児島駅 寝台列車 20系客車
「さくら」 東京駅?長崎駅 寝台列車 20系客車
「みずほ」 東京駅?熊本駅 寝台列車 在来形客車(不定期列車。実質は毎日運行)
昼行急行列車 定期6往復
「べっぷ」 広島駅?別府駅 58系気動車
「山陽」 岡山駅?博多駅 58系気動車
「安芸」 東京駅?広島駅(呉線経由)
「筑紫」・「ぶんご」 東京駅?博多駅・大分駅
「さつま」 名古屋駅?鹿児島駅(京都駅?岡山駅間で大社駅発着の「だいせん」併結)
「宮島」 大阪駅?広島駅(呉線経由) 58系気動車
夜行急行列車 定期10往復・不定期4往復
「霧島」 東京駅?鹿児島駅
「日向」 京都駅?都城駅
「ひのくに」 大阪駅?熊本駅 寝台列車
「雲仙」・「西海」 東京駅?長崎駅・佐世保駅
「玄海」 京都駅?長崎駅
「天草」 京都駅?熊本駅(筑豊本線経由)
「平戸」 大阪駅?佐世保駅
「阿蘇」 名古屋駅?熊本駅
「高千穂」 東京駅?西鹿児島駅(日豊本線経由)
「音戸」 大阪駅?広島駅(呉線経由) 寝台列車
「桜島」 東京駅?西鹿児島駅(不定期)
「はやとも」 大阪駅?熊本駅(不定期)
「第2日向」 京都駅?南延岡駅(不定期)
「第2玄海」 京都駅?長崎駅(不定期)
準急列車 6往復
「吉備」 岡山駅?広島駅(呉線経由) 気動車昼行
「長門」 広島駅?小倉駅 気動車昼行
「周防」 広島駅?小郡駅 気動車昼行
「にしき」 岡山駅?岩国駅 気動車昼行
「びんご」 大阪駅?三原駅 電車昼行
「ななうら」 京都駅?広島駅(呉線経由) 客車夜行

2009年03月05日

ガルダ(梵語:???? Garu?a)

ガルダ(梵語:???? Garu?a)は、インド神話に登場する神鳥。ガルダはサンスクリットやヒンディー語による名称で、パーリ語ではガルラ(Garula[1])、英語やインドネシア語などではガルーダという。カシュヤパとヴィナターの息子で、ヴィシュヌのヴァーハナ(神の乗り物)である。

ヴァイナテーヤ(Vainateya、ヴィナターの子の意)、ガルトマーン(Garutman、鳥の王の意)、スパルナ(Suparna、美しい翼を持つ者の意)、ラクタパクシャ(Rakta-paksha、赤い翼を持つ者の意)、スレーンドラジット(Surendra-jit、インドラを滅ぼす者の意)、ラサーヤナ(Rasayana、水銀のように動く者の意)といった異名を持つ。ガルダの名は「gr」(飲み込む)に由来すると考えられている。

その一族はインド神話において人々に恐れられる蛇・竜のたぐい(ナーガ族)と敵対関係にあり、それらを退治する聖鳥として崇拝されている。これは、インドにおいて猛禽類や孔雀は蛇を食べると解釈されていたことによるものらしい。単に鷲の姿で描かれたり、人間に翼が生えた姿で描かれたりもするが、基本的には人間の胴体と鷲の頭部・嘴・翼・爪を持つ、翼は赤く全身は黄金色に輝く巨大な鳥として描かれる。

仏教における存在
仏教に入って八部衆、後には二十八部衆の迦楼羅(かるら;パーリ語に由来)または金翅鳥(こんしちょう)となり、そのイメージが日本に入って天狗(烏天狗)となったとされる。不動明王背後の炎は「迦楼羅炎」(かるらえん)と呼ばれ、ガルダの吐く炎とされる。

仏教・イスラム伝来以前よりヒンドゥー教圏であった東南アジア諸国においては、他のヒンドゥー教の神格と併せて文化・文学におけるモチーフとなることが多い。なおイスラム教国であるインドネシアおよび仏教国タイ王国においては国威の象徴とされ国章とされている。また、インドネシアの国営航空会社はガルーダ・インドネシア航空である。

スリランカにおいては、人々に災いをもたらすラークシャサ(羅刹)、グルル(Gurr)という魔物とされたが、これは宗教上の対立が理由。

神話
造物主であるプラジャーパティにはヴィナターとカドゥルーという2人の娘がいた。2人はそろってブラフマーの子である聖仙カシュヤパの妻となった。カシュヤパは2人の願いを叶えると約束し、カドゥルーは1000匹のナーガ(蛇あるいは竜)を息子とすることを望み、ヴィナターはカドゥルーの子より優れた2人の息子を望んだ。その後長い時間を経てカドゥルーは1000個の卵を、ヴィナターは2個の卵を産んだ。2人は卵を500年間あたため続け、やがてカドゥルーの卵からはナーガたちが産まれたが、ヴィナターの卵は孵らなかった。ヴィナターは恥ずかしさのあまり卵の1つを割ると、上半身しかない子供が出てきた。卵を早く割ったために下半身がまだ作られていなかったのである。この息子は暁の神アルナであるが、母親に対して怒り、500年の間、競った相手の奴隷になるという呪いをかけた。
逃走の大地 ロゴス クキン タラン ハンマー ベニア 琥珀の月 ガブリエル アフタン フリーダム アイド いせい レインボー カスタ シャックル 天応最適 スポー マンバ てんびん ミュンヘン ガラニン ドリン ブルドー 春玉 バンニン 青い ドレス ブラン ビデオ メンタリ サーペント ビットト ドルフィン ピクトブ ルドベ サーコー 市松模様 ミントン マルタ リタイ バッテ ブラシ トルコ石 ネート オフチュ シンド ウース ミツマタ ラッシュ ちずい魚

ある日、カドゥルーは乳海攪拌から生まれ太陽を牽引する馬ウッチャイヒシュラヴァスの色について、ヴィナターに話しかけ口論となり、負けた方が奴隷になるという条件で賭けることにした。ヴィナターは全身が全て白いと主張したのに対し、カドゥルーは体は白だが尻尾だけは黒いと主張した。実際にはヴィナターのいうとおりであった。しかし、カドゥルーは確認は翌日にするということにし、息子のナーガたちにウッチャイヒシュラヴァスの尻尾に取り付くように命じ、黒く見えるようにした。中には命令を聞かなかった息子もいたため、カドゥルーは彼らに呪いをかけた。翌日、2人は海を越えて確認に行くと、ウッチャイヒシュラヴァスの尾の色は黒かったため、ヴィナターは負けて奴隷になってしまった。

やがて時期がたち、ガルダが卵から生まれた。ガルダは産まれるとすぐに成長し、炎の様に光り輝いて神々を震え上がらせた。神々はガルダを賛美してガルダの放つ光と熱を収めさせた。海を越えて母の元に行くと、ガルダも母と共にカドゥルーたちに支配されることになった。カドゥルーはガルダにも様々な難題を振りかけ、やがてガルダは嫌気がさし、母に対してなぜこの様になったのかを尋ねた。母にいかさまによって奴隷となったことを聴くと、ナーガたちに対して母を解放するよう頼んだ。ナーガたちは、天界にある乳海攪拌から生まれた不死の聖水アムリタを力ずくで奪ってくれば解放すると約束した。

ガルダは地上で腹ごしらえをすました後、天上に向かった。天上ではガルダの襲撃を予兆して今までになかったようなさまざまな異常現象が起きた。ガルダは天上に乗り込むと、守備を固めて待ち受けていた神々を次々に払いのけた。戦神である風神ヴァーユが軍勢を整えるものの、多くの神々が打ち倒された。アムリタの周りにも回転する円盤チャクラムや目を見ると灰になる2匹の大蛇などさまざまな罠を仕掛けていたが、ガルダはそれをすり抜けてアムリタを奪い飛び去った。

ヴィシュヌ神とその妻ラクシュミを乗せたガルーダ、インド国立博物館ガルダが飛んでいるとヴィシュヌと出会った。ヴィシュヌはガルダの勇気と力に感動したため、ガルダの願いを叶えることとした。それはアムリタを用いない不死であり、ガルダはそれを受けてヴィシュヌのヴァーハナとなることを誓った。そこへ神々の王インドラが最強の武器ヴァジュラを使って襲いかかってきた。しかしそれでもガルダには敵わなかった。元々ガルダは小人の種族ヴァーラキリヤのインドラより100倍強くなるようにという願いが込められて産まれてきたからである。インドラはヴァジュラが全く利かないのを見ると、ガルダに永遠の友情の誓いを申し込んだ。その代わりにガルダはナーガたち蛇族を食料とするという約束を交わした。

そして、一旦約束を守るためにガルダはアムリタをナーガたちの元へ持ち帰った。ヴィナータが解放されると、アムリタをクシャの葉の上におき、沐浴してから飲まねばならないと告げた。それを聞いてナーガたちが沐浴をしている隙に、インドラがアムリタを取り返してしまった。ナーガたちはだまされたことに気づいたが、もはやどうしようもなかった。ナーガたちはどうにかしてアムリタをなめようと、アムリタが置かれていたクシャのあたりをなめ回したため、舌が切れ二股となってしまった(『マハーバーラタ』第1巻14?30章)。

後世の説話集『カター・サリット・サーガラ』および『ヴェーターラ・パンチャヴィンシャティカー』のジームータヴァーハナの物語にガルダとナーガ族の対立の後日談があり、そこでは両者の和解が語られている。

2009年02月13日

3days 〜満ちてゆく刻の彼方で〜

平凡な学生として平凡な日常を送り続けていた、主人公・高梨亮。しかしある瞬間を境にした三日間だけは、非凡且つ非日常なる種々の現象に見舞われる。

一日目には同じ学校に通う柊美柚の他殺の報。二日目にはやはり同校の吾妻梨花による飛び降り事件。そして三日目には狂気の魔手がとうとう自分にまで及んでしまい、藤見たまきとの性交途中、彼女諸共、惨殺される。
パノラ 暮し情報 ブーケ アカシア シーケン ブッサフマ ミストダ ユーロ ミリタ チャーミ 陽陽次 シャルテマ しゃる 淡き宵 プレス ウーハイ コラー オパールグ マイト モルフォ チュー エージ ソロ ブルカ ムスタ サイボー パクト けいらい トランス おおわひん シーラ ネクタ グアニリ モスキ アングル コロンボラ ボイルド しめじ アカンバ ダイナマイ テレメ 検索メンス テラス ドクダミ ルランナー モーリシャ プレスリ セルン ブレー さんじゅ

死亡した筈の高梨亮。だが目覚めた先は二日前の朝。平凡極まる日常風景。亮は記憶の錯乱と得も言われぬ不快感に陥りつつ、先程までの恐怖の残滓を悪夢と割り切り、登校を始める。そして道中、柊美柚の他殺現場を目撃し、奇怪な既視感を察知。

無限に繰り返される三日間の再来であった…。

高梨 亮(たかなし りょう)
主人公。殺害された柊先輩の事が何故か頭から離れず、事件の真相を探ろうとする。
藤見 たまき(ふじみ たまき) - 声優:一色ヒカル
メインヒロイン。主人公の幼なじみで、童顔で巨乳。亮に依存しており、毎朝迎えに来る、昼の弁当を用意する他、亮自身が恥ずかしがるような行動をする事もある。それは彼女が亮に一途な思いを抱いているからであり、事件に詮索する亮に対して不安な感情を持っている。天然。作中でマカロンを買ってくる。
(身長:158cm、体重:47kg、BWH:90-57-88、誕生日:10月19日、星座:天秤座)
柊 美柚(ひいらぎ みゆ) - 声優:楠鈴音
もう一人のメインヒロイン。前半部に位置する「無限の三日間」では、常に最初から死亡しており、接触機会が全く無い。学校で彼女の素性を知るものは少ないが、ドイツ人のクウォーターであると言われ、学校内でも人気がある。
(身長:164cm、体重:53kg、BWH:88-56-89)
吾妻 梨花(あずま りか) - 声優:青山ゆかり
主人公と同学年で無口で陰気かつ自傷癖があり、いつもぬいぐるみ(のえるん)を抱いているため避けられている。
(身長:157cm、体重:41kg、BWH:77-52-81、誕生日:6月25日、星座:蟹座)
吾妻 瑠花(あずま るか) - 声優:金田まひる
梨花の妹で桃髪緑眼。いつもぬいぐるみ(りあむん)を抱いている。
(身長:128cm、体重:27kg、BWH:61-52-64、誕生日:3月3日、星座:魚座)
千神 奈々子(ちかみ ななこ) - 声優:常磐もも
柊美柚の親友であり、彼女の死に瀕し、悲嘆に暮れる。制作ブランドであるLassの各作品に顔を出す名物キャラであり、何度も登場しながら性描写を出し惜しみし続ける一連のパターンは、俗に「奈々子商法」と呼ばれた。Lassの次回作『FESTA!! -HYPER GIRLS POP-』にて、ようやく性描写への突入を果たす。
(身長:156cm、体重:45kg、BWH:80-59-88、誕生日:7月7日、星座:蟹座)
広原 月子(ひろはら つきこ) - 声優:文月かな
複数の部活や同好会の部長を兼任する支離滅裂な電波系マシンガントークオタク娘。母国語がC言語。「文科系最大の問題児」、「ヒューマノイドハリケーン」など数々の異名を持つ。ある意味作中で最も危険な人物。
(身長:157cm、体重:43kg、BWH:71-59-77、誕生日:9月18日、星座:乙女座)
吾妻 友哉(あずま ゆうや)
瑠花と梨花の兄。行方不明。
黒衣の男 - 声優:間寺司
学校で噂になっている、柊を殺したと思われる怪人。無限の三日間において、主人公や藤見たまきを殺し続ける。全身黒ずくめのコートを着ており、口が山葵のような形をした不気味なマスクを被った殺人鬼。郊外の精神病院から脱走した患者とも言われているが……。
草壁 遼一(くさかべ りょういち)
過去に存在した陰陽師。

ゲーム中の用語
カイロスの時計
懐中時計の形状の魔具であり魔道生命体。特定の人物しか自由に使うことはできず、また修復もできない。
翠玉碑の欠片
術者に無限の魔力を供給すると言われる魔具。エメラルド板(ヘルメス文書)の破片
冥王の鍵
元はヴァチカンの禁書図書館に保管されており、人の顔面表皮で作られた禍々しい魔術書。

システム
BloodLimiter
これをオンにすることによって暴力的かつグロテスクな描写・表現を多少緩やかにすることが可能(ただし、オンにすると回収できないCGとオフにすると回収できないCGが存在する)。
ディスティニー・クリック
特定の条件を満たしていると、画面右下のカイロスの時計の針が回り出す。このときカイロスの時計をクリックすることにより、今まで出現しなかった選択肢を選択可能となり物語が進展する。
ナビ機能
修正ファイルver.2.01より追加された新機能。これにより周回パートのフローチャートを表示できるようになり、今までに見たシーンやシーンタイトルが確認可能となるため、攻略の上で非常に有効である。

2009年01月27日

F-4 (戦闘機)

F-4はマクドネル社が開発したアメリカ海軍の艦上戦闘機である。アメリカ空軍をはじめ、多くの国の軍隊で採用された。初飛行は1958年5月27日。愛称はファントム II (Phantom II) 、また本機を操縦するパイロットを「ファントムライダー」と呼称することもある。

アメリカ海軍初の全天候型艦上戦闘機として開発され、大型の翼と高出力のジェットエンジンを双発で装備し大きな搭載量を特徴としている。当初の機種番号は海軍では F4H 、アメリカ空軍では F-110 だったが1962年にアメリカ軍の軍用機の命名規則統一によりF-4となった。

ベトナム戦争での活躍から多くの西側諸国に採用され、各国の要求に応じて様々な派生型が数多く作られたことより冷戦期の代表的な機体となった。数々の実戦戦績や各国へのセールスの成功も含めて傑作戦闘機と評価され、マクドネル・ダグラス社の発展の原動力としてその名を世界に広めた戦闘機とされる。
タジーン ドジョブ セキュア きり ポストマン ニアミス フェデ ラテックス ホトトギス フェー タイダイ ふうせん ベリル そばみち メントール カネロニ キャンドル ファンク ブッシェル チェチ シュロチ チンネ じゃぼ ジベレリン タイシ ふらの タンキニ レユニ クロスボ 鉄人 リッポン ティナド いささ トリップ とうみょ ロレック ストップ プラン テンス プロテオ ノクターン ハコネ ハートフル タヒチ まるも ダウン ウェブ ザンサス びゃっこ マフィン

マクドネル社とダグラス社の合併によりマクドネル・ダグラス社となってからも生産が続き、総計5,195機の生産数となった。超音速戦闘機の歴史で5,000機以上製造されたのは、F-4を含め、MiG-19、MiG-21、MiG-23の4種しかない。うち3機種はソビエト製であり、西側ではF-4が唯一例となる。現在のベストセラーF-16が2008年現在で4,000機程度の生産数であることを見ても特筆すべき生産数であるといえる。

初飛行から50年近く経過して開発国のアメリカでは全機退役しているが、現在でも多くの機体が現役のまま2010年以降も運用され続ける見通しである。

F4H-1F
胴体にPhantom IIの文字が読み取れる
(1960年)
NASAで研究に使用されたF-4A
無論、初期型であるため機首部分に機関砲は搭載されていない (1965年)空対空ミサイルや超音速機の実用化の進められた1950年代?1960年代に、超音速飛翔体同士の交差時間はごく僅かであるため航空機関砲による撃破は困難であり、将来の航空機同士の戦闘はミサイルが主役となり戦闘機はミサイルを運ぶだけのものになるというミサイル万能論が主流となった時期があった。 このため、アメリカ空軍では、旋回性よりも速度や航続力を重視した護衛戦闘機F-101や戦闘爆撃機F-105、 空対空ミサイルを遠距離から発射する迎撃戦闘機F-102やF-106等の開発が重視されることとなった。 F-4自体も当初は機関砲は不要として装備されずに空対空ミサイルの搭載量が重視された。

開発前史
1952年7月、アメリカ海軍はグラマン社にF9F-9 (後のF11F-1) を発注し、また9月にアメリカ海軍は超音速昼間戦闘機の提案依頼 (RFP) を発表し、応募8社からチャンス・ヴォート社の「F8Uクルセイダー」を選択した。

この結果、マクドネル社はF1Hファントム、F2Hバンシー、F3Hデーモンと続いてきた艦載戦闘機の受注を失うこととなった。これに対してマクドネル社はF3HのエンジンをライトJ67に換装しM1.69を狙う「F3H-Cスーパーデーモン」、さらに三車輪式降着装置や後退角45度面積450平方ftの翼を与えたF3H-E、F-101ブードゥーのレイアウトを織り込み双発のライトJ65に低翼配置の面積530平方ftの主翼と全浮動の尾翼を持つF3H-Gと社内検討を行っていた。 マクドネル社は1953年9月19日にF3H-Gをアメリカ海軍航空局に提出した。F8U契約直後の海軍は数週間の後に却下したものの作業自体の継続は奨励したため、1954年前半にモックアップは完成し、海軍の上級職員に公開されるに至った。

原型機発注まで[2][3]
1954年中頃にアメリカ海軍航空局は全天候戦闘機の提案要求を出した。これに対してマクドネル社からは単発のF3H-Eと双発のF3H-G、他にグラマン社とノースアメリカン社から提案が提出された結果、1954年10月18日にマクドネル社はF3H-G案を基にしたYAH-1プロトタイプ2機建造の同意書を受け取った。しかし海軍側で要求を明確にすることができずにいたため実用化を約束されたものではなかった。とはいえ数ヶ月のうちに要件として半径250海里で2時間以上の戦闘航空哨戒を実施できる艦隊防空戦闘機をすることが明確になり、F4H-1 と改称されることとなった。 マクドネル社のモックアップは4門の20mm機関砲を装備することとしていたものの、アメリカ海軍は4発のスパローミサイルの装備のみを要求した。結果としてこの楽観論は、後にアメリカ海軍をはじめとする使用者を悩ませる問題を引き起こすこととなった。F3H-Gは新基軸となるスパローの胴体下半埋め込み式装備に変更され、また、M1.5を想定していたライト J65から当時最新鋭のゼネラル・エレクトリック J79-GE-2に変更してM2級とすることとなった。 要求仕様では火器管制装置の技術的信頼性の問題から搭乗員数の指定はなくマクドネル社は単座と複座の両案を提示していた。これに対してアメリカ海軍は早々に複座案を採択した。また、胴体中心線上の600ガロン入り落下タンク用を除きパイロンは廃止されるものとされた。 1955年6月25日に2機の「XF4H-1」テスト機と5機の「YF4H-1」試作機の正式契約が締結された。

初飛行
1958年5月27日、原型機であり第一号機でもあったマクドネル社の「XF4H-1」が初飛行を行い、油圧系統の不具合で降着装置の格納はできなかったものの飛行自体の不具合なく終わっている。同時期に試作されていたチャンス・ヴォート社のF8U-3は、この6日後に初飛行を行っている。

それぞれの初飛行成功後、エドワーズ空軍基地にて両機の比較審査が行われた。1958年12月、単発単座のXF8-Uに対する複座型・双発エンジンの優位性と搭載力が評価され「F4H-1」が選択された。当時、それまでの超音速戦闘機にみられない太い胴体と直線で構成された大型の主翼を持ち、白鳥になるかどうかも分からない「みにくいアヒルの子」と関係者の間で囁かれたこの戦闘機には、幻影や亡霊という意味を持つ「ファントム II:Phantom II(ファントム・ザ・セカンド)」の愛称が与えられた。IIとなったのは太平洋戦争末期にマクドネル社がFH ファントムを開発したことによる。しかし先代 (FH) は少ない生産数と運用期間の短さから知名度は低く、ファントムといえば本機を指すようになっていった。

飛行テスト
アメリカ海軍はマクドネル社に対し、既に完成していた原型機「XF4H-1」2機に加え、21機の量産原型機 (F4H-1) を発注した。この計23機でより実戦的な評価作業と原型機の洗い直しが行われた。この研究・開発用の21機はそれぞれメーカーであるマクドネル社や、エンジンを担当したゼネラル・エレクトリック社、ミサイルを担当したレイセオン社などに各種研究開発のために引き渡され使用されたため、二つとして同じ機体はなかったと言われている。この時期にレーダーを換装したことによるレドームの大型化やキャノピーの改善も行われている。 これらに続き生産された24機は訓練用としてアメリカ海軍や海兵隊に引き渡され、パイロットや整備員の訓練に使用された。

ドラッグ・シュートを開き着陸するF-4 (1983年)F-4の大きな特徴に、無給油で4,260kmを飛行できる航続距離が挙げられる。二基のエンジンを持つものの、胴体内に六個と主翼内に二個のタンクに加え、胴体下の600ガロンの増槽と主翼下の370ガロンの増槽の総計は3,370ガロン (12,460L) と当時の群を抜く搭載量だった。空中給油能力も合わせるとパイロットの耐久力の許す限りの航続時間を持つこととなった。
また、アメリカ海軍初の複座型艦載戦闘機であることも特徴となっている[4]。F-4では前席にパイロット、後席にレーダー・航法担当のレーダー迎撃士官が搭乗する。
コックピット前席の前面計器盤は円形のレーダースコープを中心として、中心部にコンパスや水平儀等の操縦関係の計器、左には操作系、右には警告灯、下側には油圧系統のメーターやゲージが備わり、サイドコンソールに各制御スイッチが配置される。
後席の前方視界は殆どなく、レーダー迎撃士官はパイロット用の射出座席、つまりパイロットの背中部分に備わったレーダースコープや各種計器を使用し、機内の通信装置を用いてパイロットに現在の位置や周囲の状況を伝える。後席右パネルの操縦桿状の物はレーダー操作用のスティックである。なお、空軍向けの派生型においては、後席にも操縦系統を設けている。前後席ともに空戦時の後方確認用にキャノピー枠内側に凹面鏡のリアビューミラーを備えている。
エンジン

F-4に搭載されるターボジェットエンジン
写真はゼネラル・エレクトリック (GE) 製J79-GE-17Aを石川島播磨重工業 (現・IHI) にてライセンス生産したJ79-IHI-17Aエンジンは当時最新鋭のゼネラル・エレクトリック J79とされた。F-104Aにも採用されたJ79-GE-3A型エンジンはアフターバーナー時の推力が6,715kgと当時としては群を抜く推力を発揮し、これを二基搭載することは充分な搭載力や機動性という恩恵をもたらした。
開発中、地上でのアイドリング状態からアフターバーナー点火時のマッハ2.2まで、同一のエアインテーク形状では対応できないという問題が判明している[5]。
この問題はエアインテーク周辺に発生する衝撃波が空気吸入を妨げることが原因と判明しており、その対策としてエアインテーク直前の2枚の板 (ランプ) を油圧によって角度を変えて衝撃波面をコントロールして空気流を確保する「可変ランプ」を採用することとなった。空気取り入れ口前方の固定ランプと胴体の間の50mm程の隙間が胴体表面の境界層の吸入を防いでいる。また、初期のテストで判明した問題への対策として、ランプ先端で発生した衝撃波の後方で急速に発生する境界層をエンジン抽気を利用して吸い取るために可変ランプに各12,500個の小穴を空けてある。
ランプやショックコーン、あるいは断面積可変式の二次元型エアインテークにより吸気を調整するのはマッハ2クラスの航空機には必須事項であるが、現在の戦闘機ではマッハ2以上の最高速度は実用上は不要なものとする運用思想の変化を反映してエアインテークの調整機構は省かれる傾向にある。
主翼・尾翼

F-4Eの下面
胴体下にAIM-4、主翼下にAIM-7を搭載している主翼はアスペクト比2.8テーパー比1/7で、翼弦25%で45度、前縁で52度、後縁にも若干の後退角がついており、クリップト・デルタ翼 (デルタ翼の変形で、翼端を切り欠いたもの) と後退翼の中間的なものである。[6]
開発初期の風洞試験の結果、主翼全体に5度の上半角を与える必要があると判明したが、機体主要部のチタニウム構造材の再設計は困難だったため、主翼幅70%辺りで折り畳まれる外翼部のみに12度の上半角を与えることで同等の効果を得るものとした。また、同じく外翼部の翼弦を10%程度延長してドッグツース[7]としている。
また主翼は低翼配置であり、水平尾翼のほうが高い位置にある。この配置は迎え角を大きく取ると主翼の後流が水平尾翼の効果をなくし急激な機体の頭上げ (ピッチアップ) を生じることとなる[8]。そのためF-4では風洞試験の結果を受けて水平尾翼に23度と大きな下半角をつけることで対処している。なお、尾翼(スタビレーター)は左右が一体となったオールフライングテールで作動角を大きくとっている。
なお、低翼配置で爆弾・ミサイル等を翼下に吊下するためには降着装置を長大化する必要があるため同時代以降の戦闘機では高翼配置が主流となっていった。
着艦時など低速での揚力を確保するために、主翼前後のフラップの付け根からエンジンの17段目コンプレッサーで抽出した空気を吐き出すBLC (境界層制御) 装置を採用している。
当時の戦闘機は速度性能向上のために抗力低下を重視した結果として比較的主翼面積の小さな高翼面荷重のものが多かったが、F-4は離着艦性能の向上を主眼に大面積の主翼を採用して比較的翼面荷重は低くなっている。元来はミサイルキャリアーとして設計されて空中戦・格闘戦は念頭に置いていなかったものの、低翼面荷重と充分な推力により大柄な機体でありながら格闘戦も十分にこなせる機動性を得ることができた。その空戦性能は、当時のアメリカ空軍のセンチュリーシリーズなどを凌駕しており、 (軽快なMiG機相手に苦戦を強いられる局面もあったものの) ベトナム戦争など数々の実戦でも証明された。
レーダー
機首部分にウェスティングハウス社製APQ-72を搭載し目標の捕捉とスパローミサイルの誘導に使用している。原型機18号機までは直径が約60cm (24in) のAPQ-50パラボナアンテナだったが、19号機以降では約81cm (32in) へと大型化するのに合わせてレドームも「ドルーピーの鼻」と呼ばれた大型のものに変更された。これによって前方下方向の視界が損なわれたとして後部座席からの後方視界不良の問題も合わせてキャノピーの改良も行われ、機体の背部に沿わせたラインからより膨らませた外形に変更され相応の改善を得ることとなった。
降着装置
ホイールベース7.01mトレッドベース5.46mと幅広の三車輪式降着装置は着艦時の衝撃に耐えられるように着艦重量17,250kgで7.2m/sの沈下速度[9]に耐えるべく太く頑丈に設計されている。海軍型は前脚が51cm (イギリス海軍向けK型は102cm) 伸ばして離艦時の迎え角を稼ぐことができる。
着艦時に使用するアレスターフックは尾部に収められ4.8Gの加重に耐える。アレスターフックは空軍型にも残されている。
機尾に装備されるドラグシュートは直径4.8mで着陸時だけではなく空中でのスピン回復にも使用可能とされている。