F-4はマクドネル社が開発したアメリカ海軍の艦上戦闘機である。アメリカ空軍をはじめ、多くの国の軍隊で採用された。初飛行は1958年5月27日。愛称はファントム II (Phantom II) 、また本機を操縦するパイロットを「ファントムライダー」と呼称することもある。
アメリカ海軍初の全天候型艦上戦闘機として開発され、大型の翼と高出力のジェットエンジンを双発で装備し大きな搭載量を特徴としている。当初の機種番号は海軍では F4H 、アメリカ空軍では F-110 だったが1962年にアメリカ軍の軍用機の命名規則統一によりF-4となった。
ベトナム戦争での活躍から多くの西側諸国に採用され、各国の要求に応じて様々な派生型が数多く作られたことより冷戦期の代表的な機体となった。数々の実戦戦績や各国へのセールスの成功も含めて傑作戦闘機と評価され、マクドネル・ダグラス社の発展の原動力としてその名を世界に広めた戦闘機とされる。
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マクドネル社とダグラス社の合併によりマクドネル・ダグラス社となってからも生産が続き、総計5,195機の生産数となった。超音速戦闘機の歴史で5,000機以上製造されたのは、F-4を含め、MiG-19、MiG-21、MiG-23の4種しかない。うち3機種はソビエト製であり、西側ではF-4が唯一例となる。現在のベストセラーF-16が2008年現在で4,000機程度の生産数であることを見ても特筆すべき生産数であるといえる。
初飛行から50年近く経過して開発国のアメリカでは全機退役しているが、現在でも多くの機体が現役のまま2010年以降も運用され続ける見通しである。
F4H-1F
胴体にPhantom IIの文字が読み取れる
(1960年)
NASAで研究に使用されたF-4A
無論、初期型であるため機首部分に機関砲は搭載されていない (1965年)空対空ミサイルや超音速機の実用化の進められた1950年代?1960年代に、超音速飛翔体同士の交差時間はごく僅かであるため航空機関砲による撃破は困難であり、将来の航空機同士の戦闘はミサイルが主役となり戦闘機はミサイルを運ぶだけのものになるというミサイル万能論が主流となった時期があった。 このため、アメリカ空軍では、旋回性よりも速度や航続力を重視した護衛戦闘機F-101や戦闘爆撃機F-105、 空対空ミサイルを遠距離から発射する迎撃戦闘機F-102やF-106等の開発が重視されることとなった。 F-4自体も当初は機関砲は不要として装備されずに空対空ミサイルの搭載量が重視された。
開発前史
1952年7月、アメリカ海軍はグラマン社にF9F-9 (後のF11F-1) を発注し、また9月にアメリカ海軍は超音速昼間戦闘機の提案依頼 (RFP) を発表し、応募8社からチャンス・ヴォート社の「F8Uクルセイダー」を選択した。
この結果、マクドネル社はF1Hファントム、F2Hバンシー、F3Hデーモンと続いてきた艦載戦闘機の受注を失うこととなった。これに対してマクドネル社はF3HのエンジンをライトJ67に換装しM1.69を狙う「F3H-Cスーパーデーモン」、さらに三車輪式降着装置や後退角45度面積450平方ftの翼を与えたF3H-E、F-101ブードゥーのレイアウトを織り込み双発のライトJ65に低翼配置の面積530平方ftの主翼と全浮動の尾翼を持つF3H-Gと社内検討を行っていた。 マクドネル社は1953年9月19日にF3H-Gをアメリカ海軍航空局に提出した。F8U契約直後の海軍は数週間の後に却下したものの作業自体の継続は奨励したため、1954年前半にモックアップは完成し、海軍の上級職員に公開されるに至った。
原型機発注まで[2][3]
1954年中頃にアメリカ海軍航空局は全天候戦闘機の提案要求を出した。これに対してマクドネル社からは単発のF3H-Eと双発のF3H-G、他にグラマン社とノースアメリカン社から提案が提出された結果、1954年10月18日にマクドネル社はF3H-G案を基にしたYAH-1プロトタイプ2機建造の同意書を受け取った。しかし海軍側で要求を明確にすることができずにいたため実用化を約束されたものではなかった。とはいえ数ヶ月のうちに要件として半径250海里で2時間以上の戦闘航空哨戒を実施できる艦隊防空戦闘機をすることが明確になり、F4H-1 と改称されることとなった。 マクドネル社のモックアップは4門の20mm機関砲を装備することとしていたものの、アメリカ海軍は4発のスパローミサイルの装備のみを要求した。結果としてこの楽観論は、後にアメリカ海軍をはじめとする使用者を悩ませる問題を引き起こすこととなった。F3H-Gは新基軸となるスパローの胴体下半埋め込み式装備に変更され、また、M1.5を想定していたライト J65から当時最新鋭のゼネラル・エレクトリック J79-GE-2に変更してM2級とすることとなった。 要求仕様では火器管制装置の技術的信頼性の問題から搭乗員数の指定はなくマクドネル社は単座と複座の両案を提示していた。これに対してアメリカ海軍は早々に複座案を採択した。また、胴体中心線上の600ガロン入り落下タンク用を除きパイロンは廃止されるものとされた。 1955年6月25日に2機の「XF4H-1」テスト機と5機の「YF4H-1」試作機の正式契約が締結された。
初飛行
1958年5月27日、原型機であり第一号機でもあったマクドネル社の「XF4H-1」が初飛行を行い、油圧系統の不具合で降着装置の格納はできなかったものの飛行自体の不具合なく終わっている。同時期に試作されていたチャンス・ヴォート社のF8U-3は、この6日後に初飛行を行っている。
それぞれの初飛行成功後、エドワーズ空軍基地にて両機の比較審査が行われた。1958年12月、単発単座のXF8-Uに対する複座型・双発エンジンの優位性と搭載力が評価され「F4H-1」が選択された。当時、それまでの超音速戦闘機にみられない太い胴体と直線で構成された大型の主翼を持ち、白鳥になるかどうかも分からない「みにくいアヒルの子」と関係者の間で囁かれたこの戦闘機には、幻影や亡霊という意味を持つ「ファントム II:Phantom II(ファントム・ザ・セカンド)」の愛称が与えられた。IIとなったのは太平洋戦争末期にマクドネル社がFH ファントムを開発したことによる。しかし先代 (FH) は少ない生産数と運用期間の短さから知名度は低く、ファントムといえば本機を指すようになっていった。
飛行テスト
アメリカ海軍はマクドネル社に対し、既に完成していた原型機「XF4H-1」2機に加え、21機の量産原型機 (F4H-1) を発注した。この計23機でより実戦的な評価作業と原型機の洗い直しが行われた。この研究・開発用の21機はそれぞれメーカーであるマクドネル社や、エンジンを担当したゼネラル・エレクトリック社、ミサイルを担当したレイセオン社などに各種研究開発のために引き渡され使用されたため、二つとして同じ機体はなかったと言われている。この時期にレーダーを換装したことによるレドームの大型化やキャノピーの改善も行われている。 これらに続き生産された24機は訓練用としてアメリカ海軍や海兵隊に引き渡され、パイロットや整備員の訓練に使用された。
ドラッグ・シュートを開き着陸するF-4 (1983年)F-4の大きな特徴に、無給油で4,260kmを飛行できる航続距離が挙げられる。二基のエンジンを持つものの、胴体内に六個と主翼内に二個のタンクに加え、胴体下の600ガロンの増槽と主翼下の370ガロンの増槽の総計は3,370ガロン (12,460L) と当時の群を抜く搭載量だった。空中給油能力も合わせるとパイロットの耐久力の許す限りの航続時間を持つこととなった。
また、アメリカ海軍初の複座型艦載戦闘機であることも特徴となっている[4]。F-4では前席にパイロット、後席にレーダー・航法担当のレーダー迎撃士官が搭乗する。
コックピット前席の前面計器盤は円形のレーダースコープを中心として、中心部にコンパスや水平儀等の操縦関係の計器、左には操作系、右には警告灯、下側には油圧系統のメーターやゲージが備わり、サイドコンソールに各制御スイッチが配置される。
後席の前方視界は殆どなく、レーダー迎撃士官はパイロット用の射出座席、つまりパイロットの背中部分に備わったレーダースコープや各種計器を使用し、機内の通信装置を用いてパイロットに現在の位置や周囲の状況を伝える。後席右パネルの操縦桿状の物はレーダー操作用のスティックである。なお、空軍向けの派生型においては、後席にも操縦系統を設けている。前後席ともに空戦時の後方確認用にキャノピー枠内側に凹面鏡のリアビューミラーを備えている。
エンジン
F-4に搭載されるターボジェットエンジン
写真はゼネラル・エレクトリック (GE) 製J79-GE-17Aを石川島播磨重工業 (現・IHI) にてライセンス生産したJ79-IHI-17Aエンジンは当時最新鋭のゼネラル・エレクトリック J79とされた。F-104Aにも採用されたJ79-GE-3A型エンジンはアフターバーナー時の推力が6,715kgと当時としては群を抜く推力を発揮し、これを二基搭載することは充分な搭載力や機動性という恩恵をもたらした。
開発中、地上でのアイドリング状態からアフターバーナー点火時のマッハ2.2まで、同一のエアインテーク形状では対応できないという問題が判明している[5]。
この問題はエアインテーク周辺に発生する衝撃波が空気吸入を妨げることが原因と判明しており、その対策としてエアインテーク直前の2枚の板 (ランプ) を油圧によって角度を変えて衝撃波面をコントロールして空気流を確保する「可変ランプ」を採用することとなった。空気取り入れ口前方の固定ランプと胴体の間の50mm程の隙間が胴体表面の境界層の吸入を防いでいる。また、初期のテストで判明した問題への対策として、ランプ先端で発生した衝撃波の後方で急速に発生する境界層をエンジン抽気を利用して吸い取るために可変ランプに各12,500個の小穴を空けてある。
ランプやショックコーン、あるいは断面積可変式の二次元型エアインテークにより吸気を調整するのはマッハ2クラスの航空機には必須事項であるが、現在の戦闘機ではマッハ2以上の最高速度は実用上は不要なものとする運用思想の変化を反映してエアインテークの調整機構は省かれる傾向にある。
主翼・尾翼
F-4Eの下面
胴体下にAIM-4、主翼下にAIM-7を搭載している主翼はアスペクト比2.8テーパー比1/7で、翼弦25%で45度、前縁で52度、後縁にも若干の後退角がついており、クリップト・デルタ翼 (デルタ翼の変形で、翼端を切り欠いたもの) と後退翼の中間的なものである。[6]
開発初期の風洞試験の結果、主翼全体に5度の上半角を与える必要があると判明したが、機体主要部のチタニウム構造材の再設計は困難だったため、主翼幅70%辺りで折り畳まれる外翼部のみに12度の上半角を与えることで同等の効果を得るものとした。また、同じく外翼部の翼弦を10%程度延長してドッグツース[7]としている。
また主翼は低翼配置であり、水平尾翼のほうが高い位置にある。この配置は迎え角を大きく取ると主翼の後流が水平尾翼の効果をなくし急激な機体の頭上げ (ピッチアップ) を生じることとなる[8]。そのためF-4では風洞試験の結果を受けて水平尾翼に23度と大きな下半角をつけることで対処している。なお、尾翼(スタビレーター)は左右が一体となったオールフライングテールで作動角を大きくとっている。
なお、低翼配置で爆弾・ミサイル等を翼下に吊下するためには降着装置を長大化する必要があるため同時代以降の戦闘機では高翼配置が主流となっていった。
着艦時など低速での揚力を確保するために、主翼前後のフラップの付け根からエンジンの17段目コンプレッサーで抽出した空気を吐き出すBLC (境界層制御) 装置を採用している。
当時の戦闘機は速度性能向上のために抗力低下を重視した結果として比較的主翼面積の小さな高翼面荷重のものが多かったが、F-4は離着艦性能の向上を主眼に大面積の主翼を採用して比較的翼面荷重は低くなっている。元来はミサイルキャリアーとして設計されて空中戦・格闘戦は念頭に置いていなかったものの、低翼面荷重と充分な推力により大柄な機体でありながら格闘戦も十分にこなせる機動性を得ることができた。その空戦性能は、当時のアメリカ空軍のセンチュリーシリーズなどを凌駕しており、 (軽快なMiG機相手に苦戦を強いられる局面もあったものの) ベトナム戦争など数々の実戦でも証明された。
レーダー
機首部分にウェスティングハウス社製APQ-72を搭載し目標の捕捉とスパローミサイルの誘導に使用している。原型機18号機までは直径が約60cm (24in) のAPQ-50パラボナアンテナだったが、19号機以降では約81cm (32in) へと大型化するのに合わせてレドームも「ドルーピーの鼻」と呼ばれた大型のものに変更された。これによって前方下方向の視界が損なわれたとして後部座席からの後方視界不良の問題も合わせてキャノピーの改良も行われ、機体の背部に沿わせたラインからより膨らませた外形に変更され相応の改善を得ることとなった。
降着装置
ホイールベース7.01mトレッドベース5.46mと幅広の三車輪式降着装置は着艦時の衝撃に耐えられるように着艦重量17,250kgで7.2m/sの沈下速度[9]に耐えるべく太く頑丈に設計されている。海軍型は前脚が51cm (イギリス海軍向けK型は102cm) 伸ばして離艦時の迎え角を稼ぐことができる。
着艦時に使用するアレスターフックは尾部に収められ4.8Gの加重に耐える。アレスターフックは空軍型にも残されている。
機尾に装備されるドラグシュートは直径4.8mで着陸時だけではなく空中でのスピン回復にも使用可能とされている。