1908年オスマン帝国に青年トルコ党の革命がおこると、ブルガリアはこれを機に独立を宣言し、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合した。ここはかねてよりセルビアの望んでいた土地だった。ロシアは1912年ブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ギリシアをバルカン同盟に組織し、第2次モロッコ事件(上述)と伊土戦争に苦しむオスマン帝国に対し宣戦布告させた(第一次バルカン戦争)。オスマン帝国は敗北したが、その戦後処理において、ブルガリアとセルビア・ギリシアの間に対立が生じ、第二次バルカン戦争が起こってブルガリアは、オスマンとともに三国同盟側に接近した。こうして、スラヴ、ゲルマン、ギリシア、ラテン、トルコなど諸民族がぶつかりあうバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」となった。
1914年、サラエヴォ事件によって、オーストリア皇太子が暗殺された。このような事態を予期していたドイツはただちに小モルトケによってシュリーフェン・プランが実行にうつされ、ベルギーの中立を犯してフランスに侵入したが、マルヌ会戦に破れて戦争は長期化した。ブルガリアとトルコはドイツ側に立ったが、「未回収のイタリア」問題でオーストリアと対立していたイタリアは1915年連合国側に立って参戦した。日本は日英同盟を根拠に在中国ドイツ基地を攻撃し、ドイツ権益を継承、次いで中国に二十一か条の要求を行った。
開戦3年目には航空機、戦車、毒ガスなどの近代兵器が登場し、ヴェルダンの要塞をめぐって死者25万人を出す激しい攻防戦(ヴェルダンの戦い)が展開された。当初、すぐに終わるであろうと思われていた戦争は長期化し、国家総力戦となって各国民を苦しめた。
1917年にはロシア革命が起こり、ニコライ2世は退位した。二重権力の状態を経て11月には社会主義革命が起こり、ニコライは処刑され、ソヴィエトは翌年ドイツと単独講和を結んだ(ブレスト=リトフスク条約)。窮地においこまれたドイツも、イギリスの制海権を打破するため、1917年の初めに無制限潜水艦作戦を宣言したが、これはアメリカ合衆国を決定的に連合国側に立たせることとなり、17年4月にはアメリカが参戦、200万人以上の兵士をヨーロッパに投じ、ついで中南米諸国や中国もドイツに対し参戦した。
1918年にはいると、ドイツでは物資の不足が深刻化し、国民の不満は高まってきた。同年秋以降、同盟国がつぎつぎに降伏し、ドイツは敗色濃厚となった。こうしたなか、11月にはキール軍港の水兵の反乱を機にドイツ革命がおこり、ドイツ共和国(ヴァイマル共和政)が成立した。ドイツ社会民主党を主体とする内閣は同月、連合国と休戦条約をむすび、ここに莫大な犠牲をだした大戦は終結した。
パックス・ブリタニカの終焉
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在野の歴史家ジャン・モリス(en)は、「パックス・ブリタニカは1914年8月に終わりを告げた」と述べている。それに対し、中西輝政は、「パックス・ブリタニカ」が「イギリスによる『平和』」であるなら正しくそうだったが、しかし、それはすでに「イギリス『による』平和」ではなかったと指摘している[1]。すでにヨーロッパの安定は、列強間の微妙な勢力均衡に依存していたからである。
第一次大戦におけるイギリスの戦死者数は、公式集計の完了前にナチス・ドイツによるロンドン空襲があり、資料が焼失してしまったことにより確実な統計はないものの約90万人とされ、これは第二次大戦での39万7,000人の倍以上である。イギリス人にとって第一次大戦は、まず大量戦死という悲しみの記憶であり、この戦争のあと、イギリス帝国はもはや以前の姿に戻ることはなくなった。中西輝政は、「ドイツを包囲するよりほかにない」という強迫観念が、イギリスをして壮大な軍事的対峙の網のなかに自ら囚われる結果を招いたことが「悲しみの大戦」を運命づけたと評している
中西はまた、第一次世界大戦がイギリスの衰退に及ぼした影響として、次の3点を指摘している[1]。
大戦が心神喪失と呼べるほどの幻滅とショックをイギリス国民に与え、特に若い世代の「帝国支配の意思」を大きく減退させたこと。
第一次大戦後によって生まれた新しい世界秩序が、とりわけイギリスにとって適応困難だったこと。具体的には、ロシア革命の影響による労使紛争時代の到来、大戦後の世界に広がる民族自決主義、国際連盟による集団安全保障体制、世界金融への支配力がアメリカに移ったことなど。
本来ならば国力の再生に専念すべき時期に、戦勝による「見せかけの力の膨張」が「帝国の関心」を散り乱し、中東地域の支配に固執してしまったこと。しかし、そこは新しいエネルギー源「石油」を産出し、「インドへの道」にもあたっていた。